わたしはひきこもり

ひきこもり歴約2年。地方住み。クロスバイクが欲しい。ひきこもりとして思った事を書く。

一人称をわたしから僕に変える

 一人称を「わたし」で始めてしまって後悔している。すごく気取った感じがして書きづらい。文章は気取るものだとどこかで読んだ覚えがあるし、村上龍という作家のエッセイ「すべての男は消耗品である」をイメージして始めたので、一人称を「わたし」にしたのだけど、僕がやると、自己万能感に浸っている青年の感じがする。今まで、自分で「こいつ何様なんだ」と半笑いで書いていた。

 他にも、「わたし」という一人称は、全てのひきこもりの人と言う意味をこめていた。「僕」では男限定だし、「私」だと個人の感じが強い。「わたし」は全ての人という感じがあるので「わたし」にしていた。そう思うのは、独りよがりなのか

 全てのひきこもりの共通する感情を書いて、共感を呼び、アクセス数を稼ぎ、月1万円稼いで、6万貯めて、クロスバイクを買うぞ。ひきこもりというコンテンツは競争相手が少ないだろうし、僕は本を読むので文章能力もあるだろう。ここでなら競争に勝てる。と思って8日前にブログを始めたが、そんな甘くないし、文章を書くのは難しい。言いたいことを上手く書けない。認めたくないが言語能力が低いのだろう。話すのもへたくそだし。

 しかし、僕は興味と関心とモチベーションが本や言語にあるので、いくら低かろうが、文章能力の向上や、読解力を上げる事を諦めようとは思わない。亀の様に遅くても歩いていこうと思う。

 ここは文章能力向上の為にも続けたいし、ひきこもり生活で使っていない分野の脳が活性化する感じがあるので続けていきたい。よろしくお願いします。

 それに、なにでヒットするかもわからないし、もしかしたら月1万も可能かもしれない。

 

 ブログの名前をどうしようと悩んでいる。「わたしはひきこもり」ってタイトルなのに文章の中では僕というのは混乱するだろう。かといって、「僕はひきこもり」にしてしまうと弱弱しすぎるのでそれも嫌だ。ひきこもり日記だとレディメイトな感じが強くて、クリックしてくれなさそうだ。いい名前を思いついたら、変えようと思う。もし、いい名前があったらコメントで教えてください。お願いします。

ザ・ノンフィクションを見た ギーグハウスいいなと思う

ザ・ノンフィクションを見た。

ニートのPhaさんの話だ。

ザ・ノンフィクション後編は25日放映です - phaの日記

 

www.youtube.com

 

 見ていて、ギーグハウスいいな。と思うと同時に、ショーシャンクの空にを思い出し暗い気持ちになった。ギーグハウスはショーシャンクの空にを連想させた。

ショーシャンクの空には世間では元気になる映画となっているが、わたしは暗い気持ちになる。

 

 銀行員の男が、冤罪で投獄されるが、希望を失わず、脱獄するという話だった記憶がある。脱獄し、施設の中で銀行員としての能力を発揮し手に入れた大金で仲間とともに新たに店を始めるところで映画は終わった気がする。

 Phaさんも同じで、仕事を辞め既製品の社会から脱獄し、能力をいかし、仲間とともに、ギーグハウスをつくる。

 

 わたしは銀行員の主人公に感情移入できない。

 どちらかと言えば、ずっと施設にいて何の能力も無い、老人に感情移入をした。施設内に長いこといる老人が「施設からださないでくれ、外に行っても居場所がない」と言うシーンがあった気がする。そして、その老人は外に出され、自殺してしまう記憶がある。

  見た当時は19のフリーターだったが、何の能力も無い人はどこにもいけない。というメッセージを個人的に読み取って、何の能力もないわたしは暗い気持ちになった。

 

 ギーグハウスに集まる人は、ある程度知的で、なにかしらの能力があるように見えた。能力は外の世界へと開かれるものだと思う。

何もしていない人がいないように見える。それぞれが好きな事をしている。無為ではない。それぞれの能力を生かし、協力している様に見える。そいった意味では社会と同じだ。

 

 芸は身を助けるという言葉のとおり、漫画家の男の人は結婚し、漫画雑誌の連載を獲得する。

 

 なにしろ、能力は仲間をつくるし、外へ開かれるものだなぁと思った。なんの能力の無い人は、仲間を作ることは難しいし、ニートとして連帯して、ギーグハウスのようなものを運営していくことは難しいんじゃないかなあと思った。だれも、ホームページを作ることが出来ないし、コミュニケーション能力もないし料理もできない。という状態で集まってもすぐ駄目になると思う。

 

 作っているうちに覚えていくものかもしれない。しかし、覚える事も勉強能力だし、試行錯誤しなければいけないし、やはり知的でなければ運営できないだろう。phaさんはニートとしてのコンピテンシーが高いのだろう。

 

 何にしろ勉強ってしないと駄目だなあと思う。

 

 phaさんに興味をもったのでphaさんの本を読もうと思った。図書館には置いてないだろうし、近所の本屋にもないから、いつになるだろうか......

 

 

 

 

 

 

 

 

拒否して存在するものはつまらない

 

 社会学の教科書を読み終わった。

 

社会学 (New Liberal Arts Selection)

社会学 (New Liberal Arts Selection)

 

 

そして、内容はほとんど忘れてしまった。

 

かろうじて覚えているものの中に、自我の分類の話がある。

浅野智彦という人によると、自我はピューリタリズム、スノビズム、ダンディズムの3つに別れるらしい。

 

ピューリタリズムは神を価値と思い、神への信仰によって自己が作られる。神への準拠ゲーム。

 

スノビズムは社会的に上層の人を模倣し、下層の人を軽蔑、隔離する。他者との比較において優越を誇示し、他者の称賛によって自己が作られる。現状の支配的価値や商品世界への適応を何のてらいもなく行う。他者への準拠ゲーム。

 

ダンディズムはスノビズムのゲームの外にでて、それを拒否するという点において成立する。あらゆる価値に疑惑の矢を自省的に向ける。虚無への準拠ゲーム。

 

孫引きなので、本来の意味と間違えているかもしれないが、この社会学の本にでてきた3つの定義によると、わたしは恐らくダンディズムと言うことになる。もともとスノビズムだったが、スノビズムの中で自我を保つことができる要素がないのでダンディズムに移行したのかもしれない。

 

この3つの定義を読んだ時に2つの小説の文章を思い出した。

 

「すでに希望は、社会が用意するものでは無く、個人が発見するものになっているのかもしれないが、そういったことは巧妙に隠蔽されている。つまり、古くて使い物にならない希望や、偽の社会的希望があふれいているのだ。引きこもりの人々は、偽の社会的希望を拒否しているのかもしれない。」共生虫 あとがき 村上龍

「手近にある第二義的な原因を本源的な原因ととりちがえ、それでほかの人間より手っとり早く、簡単に、自分の行動の絶対不変の基礎が見つかったように思いこみ、それでほっと安心してしまうのだ」

「ぼくは思考の訓練を積んでいるから、どんな本源的原因をもってきても、たちまち別の、さらにいっそう本源的な原因がたぐり出されてきて、これが無限につづくことになるだろう」地下室の手記 ドストエフスキー

今、引用しようと思って、新潮文庫版の地下室の手記を持ってきたのだが28ページと29ページは全ての文章に線が引かれている。この2ページは、ある種のひきこもりにとってバイブルではないか?

 

日本社会は、何の根拠もないが ピューリタリズム1 スノビズム7 ダンディズム2 くらいの割合だと思う。

 

わたしはスノビズムを拒否してるだけの、つまらない存在だ。

 

とんでもないくらい勉強して、一から価値観をつくりあげていかないと、どうしようもならないんじゃないかと思う。

 

 

昼の公園に行った

 

 

 どうしても、今日中にフリマサイトで売れたものを発送しないといけない。しょうがないので昼に外に出た。駆け足でヤマト運輸の営業所に行き、商品を発送した。帰り、公園に行った。幼稚園児たちが賑やかに走り回っている。幼稚園の先生も楽しそうに走り回り、恐らく園長であろうスーツのおじさんがブランコを元気よくこいでいる。よく深夜に行く公園なのだが、まるで違う場所に見えた。

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 深夜によく、地獄みたいな気持ちで、1人、公園に行き、携帯バーナーでお湯を沸かし、カップラーメンを食べるか、カフェオレを飲むかしている。今日は昼に同じことをした。公園の活気のせいか、少しだけわたしも楽しい気分だった。遠くに、幼稚園の賑やかな集団をみながら、カフェオレを飲んだ。変質者と間違われていなければいいな。

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 人といるとそれだけで楽しい部分があるのかもしれない。去年の夏。1人で花火をしたが全く楽しくなかった。やるまえからつまらないだろうなと思うと同時に、もしかしたら、楽しいかもしれないとも思った。家庭用の打ち上げ花火と線香花火を買い、深夜人のいない神社に行った。家庭用打ち上げ花火を設置し、着火した。予想以上に大きな音とともに花火が噴射される。寝静まった静かな住宅街にも響きわたっている。わたしは焦った。まるで、中学生がいたずらしてみたいじゃないか。わたしはその花火が終わり次第、走って逃げた。

 

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 そして、公園に行った。人は1人もいない。ベンチに座り、線香花火をした。全く楽しく無かった。しかし、捨てるよりかは、使いきりたいので2本同時に火をつけて、消化していた。何本かやっているうちに、遠くから、騒ぎ声。酔っ払った大学生の集団が来ているのが目に見えた。わたしは線香花火を振り、火を消し、韋駄天。走って逃げた。

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 しばらく、使いきれなかった花火が押し入れに眠っていたが、最近掃除したときに処分した。

 

 

エクソダス

「この国にはなんでもある。だけど希望だけが無い」

村上龍希望の国エクソダスという2000年あたりに発行された小説のセリフだ。

https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/51AMR3HVYQL._SL75_.jpg

 

わたしはこのセリフを読んだ時、19歳で、フリーターだった。意味も良く考えず全身で共感した。それから、わたしは希望がないと、よく人に言った。あまり理解されなかった。希望って何?と返された。

 

希望の国エクソダスの中での希望の定義は、おそらく経済成長という意味だと思う。働いても、給料が上がらない、高度経済成長期のような感覚が無い。社会全体に希望が無いという意味だと思う。

 

わたしの「希望がない」の言葉の定義は良くわからない。最近の若者の傾向を持っているので、高価なものを欲しいと思わない。なので給料があがらない事はどうでもいい。

何故か19歳の時、意味が分からず希望が無い、希望が無いと言い続けていた。

 

その時のバイトは仕事内容は良かったが、希望が無い事に耐えきれずバッくれて辞めた。日本からもバッくれたい。息苦しくて仕方ない。

生活

 朝10時くらいに起きて、寝袋と椅子を往復する。12時近くなったら、昼ご飯を食べてぼんやりする。本を読んで、5時くらいになったら、夕ご飯をレシピ本どおりに作って食べて、ネット記事を読んだり、youtubeをみたり、フラッシュゲームやLOLをして、適当な時間に寝る。という生活だ。人との接点が無い。人と話さない。2年、会話をしていない。いつもぼんやりしていて、歯の隙間に何かが挟まっているかの様に釈然としない気分だ。

 

 最近はそうでもないが、ひきこもった初期の頃は何にも集中できないほど、脳内喧嘩が酷かった。もう一人のごくごく一般的な社会的な思考をするもう一人のわたしと脳内で言い争いをしていた。例えば脳内の社会的なわたしが

「はたらかない、ごくつぶしが恥ずかしくないのか?」

「いい歳して、中学生見たいなことで悩んでいる」

「恋人もいなくてみじめだな。同年代は遊びまわったり、目標に向けて勉強したりしているのに、君は家でひとり何もせず、無為に暮らしているだけ、みじめだな」

と言ってくる、それにたいし、ひきこもっている私が

「世間の価値観におれは染まっていないんだ、そこらへんの、思考停止した人間よりましだ」

「働いて何になる。働いたってお金を手に入れるだけじゃないか」

「中学生みたいなことを考えて何が悪い。厨二病の何が悪い。おれは真剣に生きているんだ。」

「別におれは恋人なんて必要ではない、1人でいることは特に楽しいことではないが、人といるよりは楽しい。そして、楽しいだけがすべてではない。」

「資本主義に適応する事が全てじゃない」

 

と言い返す、脳内の社会がすかさず言い返す

 

「じゃあ、君はどこに向かっているの?君の価値観って何」

「資本主義の世の中で勝てない嫉妬だろ?それに恋人本当はほしいんだろ?」

「本当はお金を手に入れて贅沢したいんだろ。社会に認めらる事をしてえらくなりたいだろ」

そしてわたしが

「確かに本当は欲しいのかもしれないけど、自分にはいろいろなものを手に入れる能力がない。だから違うものを探しているんだ、それの何が悪い。」

と言う。そして、「そんなの、甘えだよ」と言われ、「甘えって何だよ、もう一度言うけどおれは、オルタナティブなものをさがしているんだ。」と言い返し、言い返され、言い返し、言い返され......喧嘩が堂々巡りし、不毛な時間を過ごす。

 

1人で考えているので答えがでない。人生相談の本や記事を見る。腑に落ちない。わたしは説教されて、働きだす事は無いと思う。怒られてもああこのパターンかと思う嫌な奴である。説教のレベルで何を言われたって無駄なのだ。だから、哲学の本を読む。しかし書いていることがわからない。もう少し哲学の本が理解できたら、なにかいい方向へと向える気がするが......。

 

 脳内喧嘩をする引きこもりは多いのではないかと思う。ごく当たり前に日本の義務教育を受けて、当たり前にテレビをみたり、生活をしていたら「労働しない人駄目」という思考回路が埋め込まれる。テレビでホームレスは素晴らしいと持ち上げるような番組は見たことが無い。

 生産能力が高く沢山お金を稼げる人間を主に素晴らしいものとして、テレビや学校は持ち上げる。そうした環境におもいきり浸っていたわけだから、「労働しない人間」は駄目と盲信した社会的わたしが生まれる。

 その社会に反抗する行動をしているので、自分で自分を過酷に責め出す。どんな酷いことを言ってくる人よりも、自分が自分に対し酷い事を言う。

 

 もし、テレビや他のメディアでも、ホームレスは素晴らしい。生産能力が無くたって、生きているだけで素晴らしいことだと、メタに伝えていたら この脳内喧嘩はしていないだろうし、相模原の障害者殺傷事件はおきなかったかもしれないなあと思う。

 

 

遠足

いつかくる、福島へのクロスバイクを使った観光に向け、10km先の隣町へ歩行し野宿の予行演習を実施した。背中が隠れてしまう程大きい割に、軽いザックを背負い、長い森の中を歩く。深夜、明かり一つ無い、木々に覆われた暗い車道で、森から聞こえた葉音に熊の恐怖をひきだされ、おびえきって、ふぬけな自分を思い出し歩く。
 しばらくして、沼についた。沼の周りの公園の、東屋に置かれた湿ったベンチの上で、蚊取り線香を焚き、マットを敷き寝袋を取り出し、その中に入った。暖かく、疲労を感じていた足が休まる。わたしはすぐ眠りに落ちた。2度、夜の静寂に目を覚ました。3度目に目を明けると、ミストにつつまれた美しい沼があった。
 朝露をジーンズの裾に感じながら、わたしは沼へ駆けた。沼の縁に立つと、目の前に、屹立する橙色の並木。トリが2羽泳いでいる。水面を眺めていると、ぼんやりと鯉が二匹見えた。
 小さいやかんで、米を2合炊いた。二つに分けてラップにくるんだ。キャベツと、ニラ、モヤシ、豚肉を入れて塩を振って、キャベツからでる水分で茹でたあと、炒めた。
 食事が終わり、ベンチの上でもう一眠りした。目覚めると7時だった。高校生が自転車をこいでいる。わたしはリュックから新書を取り出して読んだ。こんどは、釣り竿を持って来ようと思った。